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2020.11.02更新 ダイヤ改正に対応しました。 |
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※千里中央・桃山台・緑地公園は北急南北線 ※駅長欄◎:管区駅長、○:駅長を表す (北急線内不明) |
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■配線略図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■建設の経緯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大阪市高速度交通機関協議会で1925(大正14)年10月に高速鉄道計画を策定、1926(大正15)年3月27日の市議会で都市計画決定された当初の計画では、1号線(御堂筋線)は「豊能郡豊津村榎坂〜東淀川区北川口町〜国有鉄道東海道線大阪駅〜都市計画路線御堂筋〜南海難波駅西端〜都市計画路線難波住吉線〜浪速区市電大国町交差点〜国有鉄道関西線天王寺駅南側〜住吉区西田辺町〜住吉区我孫子町」の、全長19.96kmの路線として計画された。この当時の計画では、榎坂から新淀川南側まで・天王寺から我孫子までは高架での計画であった。この中でも南方〜我孫子間は第1期事業、榎坂〜南方間は第2期事業とされた。1930(昭和5)年1月29日に御堂筋平野町において盛大な起工式を挙行し、梅田〜心斎橋間の建設に着手。梅田・淀屋橋付近の軟弱地盤に悩まされたり、日本初の河底隧道などの難工事を乗り越え、日本初の公営地下鉄として1933(昭和8)年5月20日に梅田(仮駅)〜心斎橋間を開業した。梅田駅は国鉄高架工事や用地買収の遅れのために仮駅として開業、後の1935(昭和10)年10月6日に本駅が使用開始された。初開業区間は雄大な構想に基づいて建設され、梅田・淀屋橋・心斎橋の3駅は天井が高いドーム形状、ホーム延長は最大12両と設計されていた(後に10両対応に計画変更)。初開業に先立つ1933(昭和08)年4月には心斎橋〜難波間の建設に着手。1935(昭和10)年10月30日に心斎橋〜難波間が開業し、“キタ”と“ミナミ”が直結され、地下鉄としての機能を十分に発揮するようになった。難波から南の区間は、道路拡張に伴う用地買収の遅れ・地下埋設物の処理に時間を要し、さらに資金調達が思うようにいかずに遅れていたが、1933(昭和8)年6月に難波〜天王寺間の建設に着手。1938(昭和13)年4月21日に難波〜天王寺間が開業し、梅田・難波・天王寺の各ターミナルを結び、後に大阪の大動脈となる1号線(御堂筋線)の基礎が完成した。その後も第1期事業完遂のため、1938(昭和13)年11月に天王寺〜西田辺間の建設に着手。しかし日中戦争が拡大、建設資材が軍需資材として統制されるなどし、1941(昭和16)年には太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年3月、天王寺駅南約600mの隧道を造ったところで建設中止となった。 |
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1948(昭和23)年6月18日に市議会で確定した路線改訂では、南北の交通量が多い大阪の大動脈であった営業区間の7.5kmと特許区間をそのまま採用。北部については将来の情勢によっては豊中市蛍ヶ池方面へ延長することを考慮して計画され、区間は「吹田市大字垂水〜住吉区我孫子町」で19.90kmの路線となったが、大きな経路変更は行われなかった。 1950(昭和25)年6月17日に中止されていた天王寺〜西田辺間の建設が再開された。この建設中止により、長期間にわたって御堂筋線を中心に発展、御堂筋線が主体の大阪圏交通事情が形作られた。1951(昭和26)年12月20日に天王寺〜昭和町間、1952(昭和27)年10月5日に昭和町〜西田辺間が開業した。 1958(昭和33)年3月28日の都市交通審議会答申第3号「大阪市およびその周辺における都市交通について」では、1号線の垂水〜南方・西田辺〜我孫子が特に力を注ぐべき路線、垂水〜千里山付近・我孫子〜堺市東部が今後の情勢の変化に対応し、慎重な考慮が必要とされた。 車庫用地として住吉区我孫子町に戦前土地を取得していたが、一挙に路線を延長して車庫を建設するには当時の財政事情からみて困難であったため、一時的な措置として住吉区西長居町に6両編成対応の検車場を建設して使用していた。しかし年々増加していく輸送需要に対応ために7両編成以上が収容できる車庫建設が急務となり、1958(昭和33)年6月30日に西田辺〜我孫子間の建設に着手。1960(昭和35)年7月1日に西田辺〜我孫子間が開業し、直後に我孫子検車場の使用が開始された。 |
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1963(昭和38)年3月29日の都市交通審議会答申第7号「大阪市およびその周辺における高速鉄道の整備増強に関する基本計画について」を受けて改訂された基本計画では、御堂筋線は北側の終点を垂水から千里山に変更、南側も中百舌鳥への延長が盛り込まれた。またこの答申に別紙で「大阪市高速鉄道第1号線の輸送限界に対処する方策について」と題する中間決定事項が添付されるほどの混雑度で、1961(昭和36)年には、1958(昭和33)年の都市交通審議会答申第3号で想定した1975(昭和50)年度の輸送量をすでに達成し、7両編成2分30秒間隔でピーク時の最大混雑率は300%と非常に深刻な状況であった。 東京オリンピックを機に建設される東海道新幹線と接続するため、淀川区宮原町まで延長されることとなり、1962(昭和37)年10月に新大阪〜梅田間の建設に着手。1964(昭和39)9月24日に新幹線の開通に先立って新大阪〜梅田間が開業した。また1965(昭和40)年9月には、万国博覧会が大阪府吹田市の千里丘陵での開催が決定。大阪府が造成している千里ニュータウンの通勤通学の足を確保するために御堂筋線をさらに北進させることになった。大阪府は阪急電鉄へ建設要請を出したり、大阪市による延伸要請も行っていた。大阪市・阪急電鉄ともに消極的で、大阪市としては市費を市域外に使う事に関しての合意や、御堂筋線の延伸に対する財政支援を大阪府が拒んだために大阪市は断念。万博輸送は江坂からバスという案まで浮上した。結局江坂までは大阪市、江坂以北は北大阪急行電鉄が建設・運営し、1号線と相互直通運転を行うことになった。1968(昭和43)年1月4日に江坂〜新大阪間の建設に着手し、1970(昭和45)年2月24日に開業、相互直通運転を開始した。 1971(昭和46)12月8日の都市交通審議会答申第13号「大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網整備増強に関する基本的計画について」では、御堂筋線の輸送力を緊急に最大限まで行うとともに、新規の輸送施設の開発・実用化を早急に実現するように提言された。また、我孫子〜中百舌鳥間が削除され、新たに堺筋線が動物園前から天下茶屋を経由して中百舌鳥まで延伸させる構想が追加された。 |
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我孫子以南は、都市交通審議会答申第13号で6号線(堺筋線)が動物園前から中百舌鳥までの路線として設定されていたが、御堂筋線は将来的に10両編成化が必要とされており、8両編成が限界の我孫子検車場は拡張できる可能性が無かったことから、大阪府・堺市と協議、御堂筋線を中百舌鳥まで延伸して中百舌鳥付近に車庫を新設することとなった。1980(昭和55)年6月11日に我孫子〜中百舌鳥間の建設に着手し、1982(昭和62)年4月18日に我孫子〜中百舌鳥間が開業、ここで現在の御堂筋線の形となった。 |
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■使用車両 >>> 各形式の紹介はこちら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
< 現 役 > ・ 10A系 2007(平成19)年〜 ・ 新20系(21系) 1991(平成3)年〜 ・ 30000系(31系) 2011(平成23)年〜 ・ 北急8000形 1986(昭和51)年〜 ・ 北急9000形 2014(平成26)年〜
< 過 去 > ・ 100形(初代) 1933(昭和8)年〜1969(昭和44)年 ・ 200形(初代) 1935(昭和10)年〜1969(昭和44)年 ・ 300形 1938(昭和13)年〜1969(昭和44)年 ・ 400形 1943(昭和18)年〜1969(昭和44)年 ・ 500形 1949(昭和24)年〜1969(昭和44)年 ・ 600形 1951(昭和26)年〜1969(昭和44)年 ・ 1000形 1953(昭和28)年〜1969(昭和44)年 ・ 1100形(後の100形(2代)) 1957(昭和32)年〜1969(昭和44)年 ・ 1200形(後の200形(2代)→5700形) 1958(昭和33)年〜1969(昭和44)年 ・ 5000形(50系) 1960(昭和35)年〜1969(昭和44)年 ・ 30系 1968(昭和13)年〜1969(昭和44)年 ・ 10系 1976(昭和51)年〜2020(令和2)年 ・ 北急7000形 1969(昭和44)年〜1970(昭和45)年 ・ 北急8000形(初代) 1969(昭和44)年〜1970(昭和45)年 ・ 北急2000形 1969(昭和44)年〜1993(平成5)年
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■ダイヤ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●2018(平成30)年03月24日改正 2018(平成30)年3月24日改正ダイヤでは、朝混雑時運転間隔見直しに伴い改正が行われた。朝混雑時の上りで、最短2分15秒〜2分30秒間隔とばらつきがあったが、2分15秒間隔に変更することで増発を行った。また深夜帯の中津行きを新大阪行きに変更し、新幹線利用客の利便性向上を図った。前ダイヤと比べると、下りでは中津始発我孫子行きが消滅、上りでは新金岡始発発千里中央行きが消滅、土休日ダイヤの夕方にあった天王寺始発千里中央行きが消滅となった。また我孫子始発中津行きは復活している。
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●2015(平成27)年03月01日改正 2015(平成27)年3月1日改正ダイヤでは、可動式ホーム柵設置による停車時分変更・朝混雑時運転間隔見直しに伴い改正が行われた。これまで朝混雑時に新金岡から我孫子まで回送、我孫子から営業という列車が存在していたが、全て新金岡始発に変更されたため、我孫子始発列車は激減した。上り最終に中百舌鳥発天王寺行きが初めて設定された。平日朝混雑時のみ、運転間隔の変更が行われている。
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●2013(平成25)年03月23日改正 2013(平成23)年3月23日改正ダイヤでは、終発延長に伴い改正が行われた。なかもず発梅田行き2本が新大阪行きと中津行きに変更され、梅田行きが消滅した。運転間隔の変更はない。
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■可動式ホーム柵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010(平成22)年度から可動式ホーム柵設置に関する調査を行ってきた。2014(平成26)年2月13日の千日前線可動式ホーム柵設置発表時には、2014(平成26)年度中に御堂筋線の心斎橋駅・天王寺駅設置されることも発表されていた。2015(平成27)年1月7日に心斎橋駅・天王寺駅に設置されることが正式に発表され、使用開始されている。
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■その他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●江坂2番線折り返し列車 早朝・深夜には、江坂駅2番線から中百舌鳥方面へ折り返す列車が存在する。2018(平成30)年3月24日改正ダイヤで平日ダイヤ・土休日ダイヤともに1日4本存在しており、早朝1本は回送から、残りは江坂行きからの折り返しとなる。この時は駅の旅客案内表示装置は1番線・2番線ともに「なかもず」表示となるが、先発・次発の表示はなく、自動放送でも案内はない。 |
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●梅田行き かつて準最終・最終で運転されていた梅田行きは、それぞれ梅田到着後に準最終は中津、最終は新大阪へ回送され留置されていた。これは寝過ごしてしまった場合でも、中津や新大阪より便利な梅田で降車する事で旅客の利便性を図ろうと考えられたものだった。2013(平成25)年3月23日の終発延長に伴うダイヤ改正で、梅田行きはそれぞれ中津・新大阪まで営業化することになり、梅田行きは消滅した。 |
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●平日朝混雑時の時刻表 御堂筋線の時刻表で目を引く箇所といえば、平日朝混雑時の7時台・8時台の時間帯で、詳細の時刻は表示いないのが特徴である。ポケット時刻表もこの方式であったが、平成初期に全時刻が掲載されたものに変更された。駅の時刻表は2011(平成23)年頃より全時刻が表示されているものが登場し、この方式のものも数は減らしているが現在も存在する。 |
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●“時刻表に載っていない”最終電車 かつて御堂筋線には、時刻表に載っていない最終電車が存在した。その名は「新幹用連絡列車」、現在のなかもず行き最終にあたる。この列車に関する資料があまり残っておらず、運行開始時期などは不明。巷では幻の最終電車・幽霊列車などと呼ばれていた。当時の新幹線最終電車で新大阪に到着しても地下鉄の運行は終了していた。それに対応すべく生まれたのが新幹用連絡列車であり、乗車は新大阪駅のみ、西中島南方から先は降車のみで、回送列車扱いとして運行していた。回送列車扱いであったために時刻表には掲載されておらず、幻の最終列車となっていた。1989(平成元)年頃に旅客列車へ変更になったとみられるが、正確な情報は不明。 右の画像は、1975(昭和50)年03月30日改正の列車運行図表。赤色矢印で示している運番17の列車が新幹用連絡列車で、江坂23:52発、新大阪23:56発、我孫子0:24着となっている。 |
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■歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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